2012年12月23日
ホームページ開設!
中々ホームページを作成するのは難しいですね。。。
色々とプログラムを試行錯誤しながら作成してます^^;是非楽しみにしていてください。
日本各地での蕎麦文化について(wikipedia引用)
■東京
蕎麦専門店だけではなく、うどんも提供する店もありこのような店も「蕎麦屋」と呼ぶ。立ち食い店も多い。蕎麦と酒を楽しむ趣向もある。古く江戸では、うどんも盛んに食べられていた。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、白米を多食する人に見られ「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる。蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、意外な資料価値がある。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。以後、江戸→東京では、蕎麦を手繰ることに一種の「粋」を見出す高い価値付けさえ生じるようになり、「夕方早くに蕎麦屋で独り、種物の蕎麦を肴に酒を飲む」ことが、スノッブ(俗物根性)さも臭わせる趣味として横行するまでに至る。江戸では、蕎麦を食べることを「手繰る」(たぐる)ともいう。このような言葉を使うこと自体、一つの気取りと言える。蕎麦つゆに蕎麦をたっぷりと浸すのは田舎者であり、江戸っ子はさっとつけて啜り込むのを粋とする、という風潮もあったことは、10代目金原亭馬生が落語『そば清』に、江戸っ子が「一度でいいから蕎麦をつゆにたっぷりつけて食ってみたかった」と言い残して事切れる、という有名な枕を付け加えているほどに顕著なことであった。夏目漱石の『吾輩は猫である』(明治38年(1905年))でも、粋人を気取るハイカラ遊民・迷亭が「うどんは馬子の喰うもんだ」とうそぶき、上がり込んだ苦沙弥先生宅で勝手に蕎麦の出前を取って一人で喰う描写がある。蕎麦食いの講釈をとうとうと垂れ、薬味のわさびの辛さに涙しつつやせ我慢で耐えて蕎麦を呑み込む迷亭のいささか俗物的な面も否めない粋へのこだわりぶりに比べ、胃弱症の苦沙弥先生が「うどん好き」であることで、うどんの印象は相対的に冴えないものとなる。同じく漱石作品の『坊っちゃん』(明治39年(1906年))においても、江戸っ子である“坊っちゃん”が松山で天ぷら蕎麦を注文する一場面が見られる。漱石が江戸文化の影響を色濃く受けていた事を想起すれば、『吾輩は猫である』での描写は、江戸・東京におけるある種のステレオタイプにのっとったものだったろう。その観念は容易に抜き難く、現在でも東京では、うどんより蕎麦の方が支持されている。蕎麦を食べる前提で作られた濃厚なつゆをうどんに用いるのも、これに起因すると見られる。江戸っ子の蕎麦に対するこだわりは、「粋」を重んじるが故の意地や見栄による誇張をこめて、以下のように言われる。
もりを食うときは蕎麦の先だけをつゆに浸して食べる。関東のつゆは濃いめなので、ちょっと浸すことで十分だからである。またこうすることによって、蕎麦の風味を十分味わえる。
1.口に入れたらあまり噛まずに飲みこみ、喉越しと鼻に通る香りを楽しむ。
2.大きな入れ物にたっぷりと蕎麦が入っているのは野暮。少なければ2,3枚食べる。
3.箸は割り箸。塗箸は蕎麦が滑るので好まれない。
4.酒を飲むのでなければ、さっさと食って引きあげるのが粋。
5.蕎麦を食べることを「手繰る」と言う。