(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活8 ~江戸の土地を買う在郷商人~

江戸初期の川越の豪商榎本弥左衛門は、江戸の田所町(現東京都中央区)の三~四両の土地が、二十七~八年後に四~五百両に値上がりしているのを見てメモ書きを遺している。今後発展する大都市においては、「急其所へ早く行、縦其所の片脇にても、直値段高くとも、間口広キ屋敷を買候て、捨てゝ置くべし、是が商人の秘密かと存候」と、商人の心構えを記している。ここでの「商人のひみつ」とは、「他人に秘すべき、商人の鉄則」の意とみられる。この弥左衛門の覚書をみると、既に江戸時代の初めから目聡い商人の間では、土地などの不動産が投機の対象になっていたことになる(『榎本弥左衛門覚書』)。江戸で土地や貸家を持つ経営者には、地方都市の商人や在郷商人が大変多い。埼玉県域でも幕末期に手広く商業活動を展開した、下奈良村(熊谷市)の吉田市右衛門家がその例である。同家は手作り地の他に、地主経営・金融業・酒造業・江戸貸家経営と、幅広い商業活動を繰り広げている。文政十一(一八二八)年からの収入の内訳をみると、江戸からの上り高が年に八百~九百両もあり、金融業に次いで高額である。これをみると、江戸での貸家経営が大変有利な商業仕法であったことになる(『新編埼玉県史通史編4』)。南村(上尾市)名主須田治兵衛家では、幕末期に「通旅籠町」(現中央区)の土地と貸家を、千八百両で購入している。大店の大丸呉服店のある「大丸新道」にも面した所で、商業上では一等地である。人形町通・大丸新道に面した所は商家で、奥には「九尺・二間」の貸家の「長屋」が七軒ある。人形町通に面した商家の貸家で一番大きいのは勘七の店で、土地坪数は七十一坪余り、地代金等は一カ月三両余りである。全部が「九尺・二間」ではないが、奥にある貸家の長屋は、共同井戸・共同便所である。「九尺・二間」はわずか三坪の建坪であるが、それでも家賃は月に銀十二匁七分五厘である。この銀貨は銭貨で約千三百六十文程なので、大工の手間賃四~五日分であり、大変高い家賃である。大通りに面した商家八軒と奥の長屋七軒、それに土蔵が二棟あって、一カ月の家賃上り高は銀五百六十七匁一分八厘、一年では金貨で百十三両一分余である。須田家は通旅籠町の他に鍛冶町(現千代田区)にも土地を持っているが、年百十三両余りの家賃収入は、同家の手広な商取引の中でも高額な収入であったとみられる(『上尾市史第六巻通史編(上)』)。[上尾市Webサイト]参照

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