花菊

上尾の歴史の歩み

上尾の歴史は、市内にある400ヶ所以上の遺跡から、約2万年前の旧石器時代(先土器時代)までさかのぼることができます。畔吉の殿山遺跡からは、関東地方では珍しい「国府型(こうがた)」のナイフ形石器が出土し、約1万2千年前の縄文時代の遺跡からは、土器や石器が発掘されています。また、貝塚も発見され、当時の上尾周辺に海があったこともわかっています。弥生時代になると、農耕や金属器の使用とともに、大集落がみられるようになりました。尾山台遺跡では、66戸の住居跡が掘り出され、大型の住居や、貯蔵庫などをみることができます。その後の古墳時代に入ると、荒川流域にいくつかの古墳がつくられました。畔吉の新藤宅に保存されている銅鏡や直刀の破片は、その時代のものであるといわれています。平安時代末期になると、武蔵国には多くの武士団が結成され、鎌倉時代は上尾周辺も含め源頼朝に仕えた足立氏の勢力下にあり、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏の所領となります。このころから、今も上尾市に残っている「菅谷村」などの地名が文献に登場してきます。また、当時のものとして板碑が現存しており、現在約500基が確認されています。平安・鎌倉時代は、日本の歴史上からも「仏教の発展期」といわれていますが、市内の寺院のいくつかはこの時期につくられました。徳星寺は弘仁年中(9世紀初め)、日乗院は元暦2年(1185年)、少林寺は正応年中(13世紀末)までに創建された、と寺伝に記されています。室町時代、関東地方では、両公方や両上杉宇治の争乱が続きました。それにより、大田氏が強い勢力をもつようになりましたが、小田原北条氏が進出した後、世は戦国時代となりました。この時代の上尾の地域は、大田氏、後には北条氏の勢力下になりました。上尾が大きく発展したのは、安土桃山時代で、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590年)以降であるといわれています。家康は、後北条氏の領地であった関東に早期に支配権を固めるため、有力な家臣団を各地に配しましたが、上尾市付近には、牧野康成・西尾吉次・柴田康長がおり、西尾氏は、上尾下に陣屋を構え、上尾宿をはじめ近村五千石の領地を配しました。牧野氏も石戸領など5千石の地を配し、市内の藤波・畔吉・石戸領家・中分・小敷谷・小泉などがその領地でした。また、柴田氏も、大谷領など3千石の石高でした。この三氏のうち、西尾・牧野氏は、後に大名となり移封されました。以後、上尾の地域のほとんどが天領、旗本領になり、明治まで続きました。江戸時代に入ると、5街道が整備され、そのうち上尾は、中山道にある69の宿場町の5番目の宿として発展しました。一方、平方は入間川・荒川の合流地点にある河岸場から発展した町で、江戸との物資の交流が盛んで大変な賑わいをみせたといわれています。近世の上尾の代表的な産業には、見沼代用水と紅花の生産があります。将軍吉宗により登用された井沢弥惣兵衛により、見沼代用水は享保13年(1728年)に完成し、多くの水田に水を潤しました。また紅花は、天明年間に市内の上村の農民が種を手に入れ、栽培したのが始まりといわれています。幕末期には武蔵の紅花の主産地は、この上尾付近で、かなりの量が生産されており、江戸や京都の紅花商人と取引きをしていました。また、文化面では、上尾宿に天明8年(1788年)、当時江戸で有力な学者だった雲室上人を招いて、摂正義塾が創立されました。これは雲室上人の私塾であり、当時としてはとても珍しいものでした。明治16年(1883年)、高崎線開通と同時に上尾駅が設置され、中山道とともに市街地形成の基礎になりました。明治末期には、近代工業の先駆けとして、上尾町や平方町に製糸工場が建てられ、昭和に入ってからは、機械・金物・食品工場も操業し、工業都市としての下地がつくられました。江戸時代、上尾に45あった宿・村は、明治初期に40となりました。その後6区域の町村になり、昭和30年(1955年)3回目の合併で新上尾町となり、その3年後、県内19番目の市となりました。市制施行当時約37,000人だった人口は急激に増加し、昭和45年(1970年)には10万人を突破、現在では市制施行当時の約6倍にまで上っています。「埼玉県上尾市 上尾タウン」を参考


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