(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活2 ~年貢納入に借金をする村々~
江戸時代の農民に課せられた租税のうち、土地に課せられたものが年貢である。この年貢のうち、水田に課されたものは米を納める現物納(げんぶつのう)であるが、畑地、屋敷地、山林などは金銭で納入する金納(きんのう)である。同じ年貢でも、米を納める水田と金納の畑地では、大きな相違があったことになる(『上尾市史第六巻通史編<上>』)。ところで現在の日本では、租税は各個人に通知されて徴収されることになっているが、江戸時代の年貢は村に対し一括して通知され、納入も村がまとめて行うことになっていた。代官や旗本が、村に対して年貢の納入を指示したものが年貢割付状(わっぷじょう)であるが、これは村宛に出されたものである。各個人への年貢は、この年貢割付状に基づいて名主が通知している。村宛に年貢の通知が出されたことは、村全体は納入の連帯責任を負うという、為政者の意図が込められていたことを示す(『上尾市史第三巻資料編3』)。よくテレビドラマでは、悪代官が厳しい年貢で農民を苦しめる場面が見られるが、上尾市史関係の資料中にはそのようなものは見当たらない。ただ農民や村役人にとっては、年貢納入は大変な負担であったとみえ、村が借金までして納入した例もある。江戸初期の延宝八(一六八〇)年に、岩槻藩領の下蓮田村(蓮田市)は年貢納入のため、金三十六両を、同じ岩槻藩領の南村(上尾市)次兵衛(じへい・須田家)から借用している。この証文には、代官の裏判がなされているので、藩が公認した借金ということになる。ところがこの借金の返済は滞ったようで、次兵衛は未返済の村々を天和二(一六八二)年にに訴えている。訴えられた村は、下蓮田村の他に馬込村(蓮田市・さいたま市)、駒崎村・井沼村・根金村・山之神村(以上蓮田市)などがあり、これらはいずれも年貢納入ができず、次兵衛から借金をした村々である。これらの例をみると、農民や村方にとっては年貢の納入は大変な負担であったことになる(前掲書)。農民の課税負担には、年貢の他に労役負担がある。領主の城郭や河川・道路の普請への労役や、伝馬(てんま)のための人足動員などである。中山道が通る上尾市域では特に天満の負担が重く、農繁期の忙しい中でも、荷物や人の搬送のため宿場へ動員されている。農民にとっては、年貢よりもこの労役負担の方が、むしろ重かったという声も聞かれるほどである(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照
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