(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活3 中山道と上尾宿
慶長七(一六〇二)年に、前年の東海道に続いて中山道にも伝馬(てんま)制度が設けられる。これが上尾宿の創設となり、周辺村を大きく変えていく契機となる。伝馬制度の施行に伴い街道に宿駅(しゅくえき)が設けられることになるが、宿駅は人馬を常時用意しておき、求めに応じて人や荷物を逓ていそう送する。伝馬制度が整った段階では、東海道は百人・百疋(ぴき)、中山道は五十人・五十疋の人馬を用意することになっていた。これらの人馬は、幕府の公用の人や荷物を運ぶために用意されたもので、私的な旅人のために用意されたものではない。しかし公的な搬送のない時は私的な旅人も利用できたので、結果的には人馬の搬送が隆盛を極めることになる(『上尾市史第六巻通史編(上)』)。中山道の宿駅は板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)まで六十七宿であるが、伝馬制の施行時に一度に宿駅ができたわけではない。埼玉県域内でも九宿が設置されているが、ここでも徐々に設置されている。上尾宿の正確な設置年は不明であるが、比較的早い段階で宿駅が設けられたとみられる。大宮宿脇本陣を務めた栗原家の文書に、「当所(大宮宿)ハ駅場ニ無之、上尾宿より浦和宿江之馬うまつぎ次也」という記述がある。大宮宿が整備される以前のことを記した資料であるが、この記述では上尾宿は浦和宿と共に、早くから宿駅の整備が進んでいたことになる(『大宮市史第三巻(上)』)。上尾下に陣屋を構えていた西尾家の家譜に、「中山道駅路桶川宿、人家無之処吉次取建之」とある。「吉次(よしつぐ)」は領主である西尾吉次のことで、これによると吉次が桶川宿を創設したことになる。創設年がここでは明示されていないが、中山道に伝馬制が施行された慶長七年以降のことと思われる。なお当然のことであるが、桶川宿の設置は鴻巣宿の創設とも関連していたとみられる。鴻巣宿は、本宿村(北本市)にあった集落が、伝馬制施行後に北方に移されて宿駅として整備されたものである(前掲上尾市史)。このように埼玉県域の宿駅をみても明らかなように、宿駅は伝馬制施行時に全てが設けられたのではなく、徐々に設立されたものである。比較的早く整備された上尾宿であるが、県域内の九宿のうちでは最も小さな宿駅で、天保十四(一八四三)年の家数は百八十二軒、隣接の桶川宿の三百四十七軒に比しても、大変少ない家数である(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照
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