(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活4 ~江戸時代の脇往還
江戸時代の「五街道」(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)とその付属道は、現在の一級国道ともいうべき主要道路であるが、当時幕府では道中奉行が管轄していた。五街道以外の道路は全て「脇往還(わきおうかん)」と分類され、これは勘定奉行の管轄となっている。江戸時代の上尾市域の道路では、中山道は五街道の一つであるが、他の道路は全て「脇往還」ということになる (『上尾市史第六巻通史編(上)』)。江戸時代の上尾市域で、脇往還が集中している所に原市町がある。幕末期の文政五(一八二二)年ごろの記録には、次のように記されている。「上新町ハ北ノ端ニテ、夫(それ)ヨリ次第シテ南ニ続ケリ、此往還南ノ方ハ大門町ニ達シ、北ハ菖蒲町ニ続ケリ、又上新町ノ内、西側二岐路アリ、上尾・桶川等ニ至ル、又下町ヨリ東西ヘ達スル道アリ、東ハ幸手・岩槻へ通ジ、西ハ大宮宿・与野町へ続ク、全ク脇往還ナレド、カゝル宿駅ヘ通フ地ナレバ、本道ニモコトナラズトイへリ」。この記述によると、原市町を通る道は脇往還ではあるが、多くの宿駅や在郷町と結び付いており、大変なにぎわいをみせていたことになる。これは、原市町が「市場町」としての機能を持つだけでなく、脇往還の要衝の地であり、宿継(しゅくつ)ぎの役割も持っていたことを示している(『新編武蔵風土記稿』)。江戸時代の平方村は、脇往還の視点からみると大変特徴のある地域である。脇往還としては、上尾宿と川越城下を結ぶ「川越道」が通っているが、荒川に面した平方村には「河岸」がある。この河岸場が脇往還と強く結び付いており、平方村の脇往還の特徴になっている。幕末期の記録に「当村ハ埼玉郡ノ諸村、及ビ上尾宿辺ノ村々ヨリ、入間郡川越ヲヘテ、多磨郡ノ方ヘ馬継ノ所ニテ、上尾宿ヘ一里十四町、桶川宿ヘ二里、川越町ヘモ二里ノ人馬ヲ継送(つぎおく)レリ」とある。この記述を見ると、平方村は遠隔地への「馬継場」と記されているが、これは河岸場と脇往還が結び付いた結果を示していることになる。河岸場があったため、人や荷物の動きが活発であったということが、この脇往還の特徴である(前掲書)。中山道の久保村地先から井戸木村を北西に進む道は、比企郡松山への脇往還である。上尾市域にはこのような脇往還がまだ数多くあるが、五街道の中山道を補完する役割を果たし、また中山道と強く結び付いている点が、一つの特徴ということになる(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照
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