(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活5 ~農業生産と商品作物
大宮台地に立地している江戸時代の上尾市域の農業は、畑作中心の農業で水田の割合は少ない。江戸初期の各村々の田畑高をみると、水田が畑より多い村は瓦葺村・戸崎村・上野本郷村の三か村で、他の村々は畑の多い村となっている。江戸時代の農業では米が最大の商品作物であるが、水田の少ない上尾市域の村々は、畑の生産物を主な収入源としていたことになる(『上尾市史第三巻』)。正徳六(一七一六)年の南村明細帳では、畑方作物として麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、大豆、小豆、大角豆(ささげ)、芋を記している。ここでは穀物と芋類が畑作の中心作物であるが、目ぼしい商品作物は見当たらない。ところが享保六(一七二一)年の上瓦葺村明細帳では、畑方作物として麦、粟、稗、大豆、小豆、綿(木綿)、大角豆、油もろこし、大根、牛蒡(ごぼう)、長芋をあげている。南村に比して多彩な作物群であるが、綿と長芋が作られていることが特に注目される(前掲書)。綿は、絹と並んで江戸時代最大の衣料原料である。関西地方では早くから栽培されているが、関東で生産が盛んになるのは江戸時代中期以降である。関東の有名な綿産地としては真岡(もおか)(栃木県)、八日市場(ようかいちば)(千葉県)地方があるが、「岩槻木綿」も名の知られた産地銘柄である。「岩槻木綿」は、現埼玉県域東部地方で生産されたものであるが、上瓦葺村でもこの時代になると生産されていたことになる。「長芋」は、足立郡南部で盛んに栽培され、江戸市場でも「南部長芋」として知られていた商品作物である。「南部」は現さいたま市の東部地方の地域名であるが、隣接している上瓦葺村でも栽培している。この村では綿(木綿)と長芋が注目されることになるが、江戸時代も中期以降になると、上尾市域の村でも商品作物栽培が盛んになってきたことの例証でもある(『新編埼玉県史通史編4』)。中分村の矢部家では、天保六~十二(一八三五~四十一)年の作物の作付け・収量などを記した資料を遺している。矢部家は名主を勤め、耕作面積も三~四町歩余の大規模経営であるが、この資料の中に紅花、さつま芋、菜種が大量に生産されていることが記されている。江戸時代も後期になると、上尾市域の村々では多様な商品作物が栽培されているが、中分村矢部家の作付けや生産の状況は、当時の村々の生産状況を象徴しているとも言えよう(前掲上尾市史)。[上尾市Webサイト]参照
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