(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活6 ~農間渡世と職人
上尾市の集落の中には、江戸時代から付された「屋号」が、現在も使われている例が数多くみられる。「屋号」は大きく(一)家の格や性格を示すもの(二)家の位置や場所を示すもの(三)家の職業・副業を示すものなどに分類することができる。この三分類のうち、第三の「職業・副業」は、本来農民身分の家の農業外の職であり、「農間渡世」と称されるものである。これらの例に、ざる屋、下駄屋、綿屋、かじ屋、屋根屋、大工、左官、鳶(とび)、茶屋、油屋などがある。この「農間渡世」の職種は、江戸時代も後期になるほど多様化している。これは一面では農民の生活が豊かになったことを示すが、反面では専業農民が減少したことを表している(『上尾市史第十巻(民俗)』)。文政十(一八二七)年に江戸幕府は農村の窮乏を救い、また奢侈(しゃし)な風俗を抑制するため「文政改革」を実施している。ここでは農村地域ごとに「改革組合村」をつくらせ、職人の手間賃を決めさせて抑制させている。文政十二年の上尾宿改革組合村の取り決めには、大工、木挽(こびき)、桶屋、左官、屋根葺、綿打、樵(きこり)などの職種が挙げられている。これをみると、当時農村でも多くの農間渡世人が活躍していたことになる。なおここでは農業手伝人・米搗(こめつき)人・紺屋(こうや)の手間賃抑制にも触れ、居酒屋の営業時間の制限、衣類・髪型の奢侈禁止など、幅広い改革項目が託されている。これは幕府側の改革要項ということにもなるが、支配されている宿村の側からみると、当時実に多様な農間渡世人が活躍していたことを示している(『上尾市史第三巻・第六巻』)。文政改革では、質屋の営業時間を「晩六ツ時迄まで」と制限しているが、これは増大した質屋の抑制政策である。江戸時代も後期になると質屋が増大し、農村金融は活発になるが、反面借金に苦しむ農民達も数多くいたことになる。農民金融の活発さが貧富の差を拡大していたことを示している(前掲書)。江戸時代も後期になると、農業生産は増大し、各地に特産物も生まれてくる。上尾市域を含む埼玉県東部でも、岩槻木綿、南部長芋、紅花、甘かんしょ藷などの特産品は地元でもこれを扱う農民があり、中には遠隔地とも取引をする大商人に成長する者も出てくる。これらの商人は農民身分なので「農間渡世」ということになるが、農間渡世の増大が江戸後期の農村の豊かさを支えていたことにもなる(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照
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