(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活7 ~農業収支と家計
江戸時代の農民で、農業収支や家計を記録した例は極めて少ない。これは農業収支記入の難しさや、長期間にわたる記録の困難さのためとみられる。ところが上尾市域では、中分村の矢部家が天保六(一八三五)年から十二年までの「万作物取高覚帳(よろずこくだかおぼうちょう)」を記し、ここで農業収支や家計の記録を遺している。長期間にわたる詳細な記録であり、埼玉県内でも珍しい貴重な資料となっている(『上尾市史第三巻・第六巻』)。膨大な記録の一部を紹介するが、天保七年の耕作は水田五反歩・畑二町八反歩、合計三町三反歩の大規模経営である。総収入七六両一分余、支出のうち肥料代十五両余・奉公人給金等二五両・年貢諸掛五両、合計四五両余となっている。差引残額が三一両余で、この中から家計費が支出されたとみられる。天保八年も総収入七六両余、差引残額二九両余であるが、天保九年には総収入は九二両余と高額になっている。しかしこの年は支出も多く、最終の残金は十両となっている。天保十年は総収入七五両余、総支出六四両余、差引残額は十一両余である。矢部家は名主も務める上層農民で、経営規模も大きく、紅花などの商品作物も大量に栽培している。そのため収入も多いが、肥料代、奉公人手間賃も膨大である。一般農民の耕作規模は一町歩程なので、その点矢部家の経営は当時の普通農民の収支を示しているわけではない。ここでは大規模経営者が、有利な商品作物を大量に作付けして、高利益を上げている姿が写し出されている(前掲書)。現鴻巣市大間(おおま)の福島家には、江戸時代の天保期(一八三〇~四四)に記された農書「耕作仕様書」が遺されている。著者は名主を務めていた福島貞雄(ていゆう)であるが、ここでは作物の栽培法だけでなく、農業収支・家計のモデルケースが三例記されている。三例は耕作規模や労働力の相違で分類したものであるが、上尾市域の農業に類似するのは田畑一町二反の耕作で、夫婦二人で経営している例である。ここでは総収入を十八両計上しており、この中から年貢、肥料代、種代、奉公人等手間賃、夫婦の生計費を支出している。支出の中で最も多いのが生計費と奉公人経費を合わせたもので、ここで八両程度支出している。次いで多いのは年貢、伝馬入用、村入用等で、三両余り支出している。当時の一般農民の収入や支出は、ほぼこの程度であったと推定される(『日本農書全集22「耕作仕様書」』)。[上尾市Webサイト]参照
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