上尾の歴史5

上尾の一里塚
桑楊庵光(そうよう あんこう)による宝暦6年(1756年)刊行の『岐蘇路安見絵図(きそじ やすみ えず)』に基づけば、上尾の一里塚は、左に榎2本、右に松1本・榎1本を目印とした、左右2基一対の形式どおりの一里塚であった。 日本橋から9里(約35.4km)、中山道中の9番目にあたるこの塚はしかし、周辺地域の近代化の際に破却され、現在偲ぶべきものを持たない。
氷川神社
寛永9年(1632年)創建の氷川鍬神社(ひかわ-くわ-じんじゃ)は上尾宿発祥の地であり、総鎮守である(※社伝に基づく上尾宿の由緒については、別項「氷川鍬神社」内の記述を参照のこと)。 鍬祭りとして鍬を祀ったのが由来というこの社は、小さな鍬2丁を神体とし、五穀を司る農業神を祭神とする。 「鍬大神宮」「御鍬大明神」と称し、明治41年(1908年)に二ツ宮氷川神社(在・上尾市二ツ宮)の女体社を合祀して現在の社号となった。 地元では「お鍬さま」の愛称で親しまれている。
遊女・お玉 上尾駅前から200mほど進んだ左手の路地奥にある寺・遍照院(へんじょういん)に、上尾宿の遊女であったお玉の墓がある。 寺に入ってすぐ左の墓地の一角に墓はあり、傍らには「孝女お玉の墓」と記された立て札が掲げられている。お玉は越後の貧農の子として生を受け、名を清と言った。 家の貧しさを助けるために11歳の若さで身を売ることとなったお玉は、文政3年(1820年)、上尾宿の飯盛旅籠の一つである大村楼に入る。 その後、美しく気立てよく宿場でも評判の遊女となっていたお玉は、19歳のとき、参勤交代のお役目で上尾を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、めでたくも江戸行きとなった。 ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで悪病を患い、上尾に戻されてしまう。 病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。 しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。 大村楼の主人は孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。 この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。 たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。 墓石に彫られた戒名「廊室妙顔信女」とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。「wikipedia(上尾宿)」参考文献

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