(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活1~村と宿駅の役職~

江戸時代の上尾市域の宿場と村の数は、全部で四十五宿村である。この中には戸数二百三十五戸の原市村のように 大きな村もあれば、わずか二戸の菅原新田のようなものもある。またどこに所在し、どのような規模の村か、実態が不分明な本(ほん)瓦葺村のような村もある(『上尾市史第三巻』)。江戸時代は、田畑ばかりでなく屋敷地・山林を含めて、全ての土地が米の生産高の石高で表示されている。農民各人の所有地の石高の合計を持高(もちだか)ともいうが、この持高に対して年貢が課せられることになる。課税される土地を持っている農民を高持(たかもち)百姓ともいうが、村の中には課税地を持たない農民もおり、このような農民は水呑(みずのみ)と称されている(『上尾市史第六巻通史編〈上〉』)。江戸時代の村は行政の上では最下部に位置し、名主(なぬし)を中心に治められている。名主を補佐する役が組頭で、百姓を代表し監査的な役割を果たしているのが百姓代である。これら三つの村役を、村方三役とも称している。ところで、名主は支配の上からは最下部の役職であるが、村の支配者である領主が複数人いる場合は、名主も複数人が任命されることになる。上尾市域でも、一つの村を何人かの旗本が支配している例があるが、その場合名主も複数人いることになる。もっとも一人の名主が他の名主の役割を兼務している例も多いので、支配者数と名主の人数は同数とは限らない(前掲書)。宿場は人や荷物の逓ていそう送という役割を担っているため、一般の村と役職名も異なっている。その例が、名主の下に設けられている年寄である。村方の組頭に相当するが、複数人任命され、宿場の行政の上でも強い権限を持っている。元文二(一七三七)年の『上尾宿御書上』を見ると、名主は八郎右衛門であるが、年寄りは源兵衛・長左衛門・五郎右衛門の三人である。百姓代は九兵衛以下六人で、大変多い人数が役に就いている(『上尾宿上尾村関係小川家文書』)。宿場で人や荷物の逓送の職務を担当するのは、問と い屋や である。問屋は宿によっては複数置かれているが、幕末期の上尾宿は一軒で、友光清兵衛が担当している。幕府の公的な役人や諸大名が宿泊するのが本陣で、補助的な脇本陣も設けられている。上尾宿では本陣は林八郎右衛門が長く務め、幕末期の脇本陣は細井弥一郎・井上五郎右衛門などが務めている(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照

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