(上尾歴史散歩)古文書に見る宿場と村の生活10 ~上尾市域の紅花商人~

江戸時代の紅花の栽培や取引の資料は、全国的には山形県、京都府に数多く残存し、次いで埼玉県に大量に遺されている。埼玉県の紅花資料は、上尾市域に遺されているものが中心で、他の市町村の残存資料は微々たるものである。江戸時代には埼玉県域の各地で紅花が栽培されているが、残存資料は大変偏っていることになる(武州の紅花)。上尾市域に遺されている紅花資料は、南村名主須田治兵衛家と分家の久保村須田大八郎家のものが中心で、本家の治兵衛家は約六百九十点、分家が約四百点である。その他中分村芝の矢部半右衛門家、同村袋の矢部善兵衛家、地頭方村島田家などにも、貴重な資料が遺されている。矢部善兵衛家と島田家には、紅花の栽培資料があり、類例が少ないだけに大変珍しい(前掲書・須田康子家文書目録1近世編)。前号の「上尾市域の特産物」で記したように、紅花の栽培は江戸商人の柳屋五郎三郎の手代が、上村(上尾市)の七五郎に種を遺して栽培させたのが始まりと言われる。武州の紅花は秋蒔で、春蒔で遅く開花する山形産に比して早く生産されており、京都の問屋も高値で買い上げたため、栽培は武州各地に急速に広がることになる。武州産の紅花は、京都では「早場」「早庭」とも通称され、安政五(一八五八)年の相場表をみると、山形産が一駄五十一~六十両の価格なのに、早場の極上は八十両という高値である。新興の武州産が高値で取引されたことは、収穫期が一カ月ほど早いだけでなく、武州農民が品質的にも工夫を凝らして栽培をしていた結果ということになろう(前掲書)。紅花生産の拡大とともに、生産地には多くの紅花商人が活躍することになる。京都の紅花問屋伊勢屋理右衛門は、享和元(一八〇一)年に須田治兵衛宛に百十五両余の仕切書を出している。この例では、須田治兵衛が早くから紅花取引に参加していたことを証することになる。須田大八郎家では、天保十(一八三九)年からの近在村々からの紅花仕入帳が遺されており、これまた早くから紅花取引を実施していた例となろう。桶川市の稲荷社には、安政四(一八五七)年に近在の紅花商人が寄進した石灯籠がある。そこには多くの紅花商人の名が記されており、上尾市域では須田治兵衛、須田大八郎の他に、中分村矢部半右衛門、藤波村篠田金右衛門、荒沢村菅原源蔵の名がみられる(前掲書)。[上尾市Webサイト]参照

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