上尾の歴史1

現在の上尾市域は中世まで農村地帯であったが用水の確保が困難なため、水田よりも麦などの畑作が行われていた。江戸時代に中山道整備の一環として上尾宿が置かれると、人口約1000人の宿場町ができた。上尾宿は街道沿いの宿場の中では規模が小さかった。この頃は水運が貨物輸送で有利だったため江戸との運輸交通は荒川を利用した船が中心であり、船着場のあった平方が上尾宿より賑わい人口も約1300人あった。また、戦国時代から町ができていた原市も中山道の脇往還として機能していた。「原市」の由来は、中世末期に原村といわれていた吉野原村(現在のさいたま市北区吉野町)から「宿」の部分が分離して「原宿」の名が生じ、後に月に2回の「市」が立った。この地域は天領・旗本領・寺社領・近隣の大名の所領が入り組んでいたが、江戸時代後期には上尾宿のための輸送負担を負う助郷としてまとまりが生まれてきた。

1883年(明治16年)に日本初の私鉄日本鉄道が開通し上尾駅が開業したことから、上尾町周辺が発展し始めた。一方、平方は荒川水運の衰退にともなって町としては停滞し原市も上尾の繁栄から引き離された。後の上尾市を構成する町村は引き続き畑作中心の農村で、大正から1930年代までは養蚕も行われた。20世紀後半には東京郊外の住宅地として発展し、1960年代からは工場も増えた。同時期に建設が始まった日本住宅公団(当時)の西上尾第一団地・同第二団地は県内有数の規模である。原市にも原市団地・尾山台団地が建設され、中規模都市としての体裁を整えていった。中山道の通る高崎線東側に比べ西側は発展が遅れていたが、急速な宅地開発によって市街地は拡大し子育て世代の若年人口が継続して流入した。現在、住民の高齢化が急速に進行している。かつて最寄り駅(上尾駅)からバスで20分という田園地帯に建設された西上尾第一団地・第二団地にまで市街地が達し、現在も土地区画整理事業や宅地造成が進められている。一方、上尾駅周辺には高層マンションが林立し富裕層による市中心部への回帰も起こっている。

1889年(明治22年)4月1日 - 上尾宿・上尾村・上尾下村・柏座村・春日谷津村・谷津村が合併して北足立郡上尾町となる。
1955年(昭和30年)1月1日 - 上尾町・平方町・原市町・大石村・上平村・大谷村が合併して上尾町となる。
1956年(昭和31年)
4月1日 - 大字井戸木字後が分離、桶川町(現在の桶川市)に編入される。
4月2日 - 大字井戸木字後の一部が桶川町から分離、上尾町に編入される。
1958年(昭和33年)7月15日 - 市制施行により、上尾市となる。
1967年(昭和42年) - 埼玉国体が開催される。
1973年(昭和48年)3月13日 - 国鉄上尾駅で乗客による暴動が発生(上尾事件)。
2001年(平成13年) - さいたま市との合併を問う住民投票が行われ、合併反対の意思表示がなされた。「合併すれば、上尾がさいたま市の辺境になる」と新井弘治市長が、市長の立場で合併に反対した。これに対し合併賛成の市民グループは、「合併反対のパンフレットを作成するのに、市役所の公金が使用された」と提訴した。
2004年(平成16年) - 彩の国まごころ国体が開催される。
2008年(平成20年) - 市制施行50周年を迎える。

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